【Essential Business Club】誕生物語

こんにちは、講座の代表&講師の鍵森 綾(かぎもり あや)です。

「物心ともに豊かな女性が、豊かに子育てできる社会の実現」をビジョンとして掲げ、
 
マーケティングの活用と自己一致したビジネスの構築で女性が物心共に豊かになる力添えをすることをミッションとしている
 
「エッセンシャルビジネスクラブ(EBC)」はどのように誕生したのか?

創設者であり、代表講師である私、鍵森綾(かぎもりあや)の“挑戦と破壊からの創造”という唯一無二な人生を通して生まれた「EBC誕生物語〜鍵森綾の人生ストーリー〜」をご紹介します。

小学校の遠足は宮島でした。

今は昔、わたしが、広島県大竹市という広島県の一番山口県寄り、宮島(世界遺産)の対岸にある小さな街に住んでいた数十年前の話です。

当時、小学校の低学年だったわたしは、本気で「女性の総理大臣になりたい」と考えていました(遠い遠い記憶ですが、これだけは鮮明に覚えています)

なぜ、田舎の小さな街に住んでいる小学生の女の子がそんなことを思ったのか?

それは、「日本社会における男女の不平等」にありました。

「日本の会社には女性社長が圧倒的に少ない」
「男性に比べて、女性の方が給与が少ない」
「女性が働きながら、子育てをして、家事もする」

当時小学生だったわたしは、こんな事実をテレビを通して知り、「わたしが日本を変えるんだ!」と息巻いたことを記憶しています。

不平等がとにかく許せない!なんとも正義感の強い女の子でした。

そんなわたしは、小学校を卒業し、広島市内の女子校(中高一貫)に通い始めます。

中学生になってからは、自分が政治家に向いているタイプではないと早々に理解し、女性の総理大臣になるという思いは消えました(←早い 笑)

しかし、平等を求める正義感の強さは一貫して自分の中に在り続けたのです。

総理大臣になりたいという思いがなくなったわたしは、高校3年生の春頃に、将来は「アスレティックトレーナー」(アスリートのリハビリやトレーニングを身体的・栄養面・精神面から包括的に行う)になると決めました。

短い期間ですが私もバレーボールをやっていました(だけど、運動音痴すぎてやめました笑)

なぜ、そんなニッチな仕事を目指すようになったのかというと、親友(親元を離れ国内留学で進学した頑張り屋さん)が春高バレーの直前に怪我をしたことをきっかけに、

「こんなに頑張ってきた人が、夢(春高への出場)を叶えられないなんて不平等すぎる。努力した人が成果を手にするべきだ!」

というこれまた、なんとも正義感の強い思いから、「自分に何かできることはないのか?」と考え、調べ上げた結果、目指すと決めた職業でした。

アスレティックトレーナーになるため、広島の実家から新幹線と電車で12時間もかかるような千葉の大学(8割が男子でした)に進学し、毎日ラグビー部専属のトレーナーとして活動しました。

(ネイル茶髪をやめて何回もラグビー部の先生の研究室に入部のお願いに通った覚えがあります笑)

入部を許してもらってからは、ラグビーの高校日本代表や女子日本代表など、様々な企業チームへもインターンとして行かせていただき、おかげさまで、難関と言われていた日本体育協会アスレティックトレーナーという資格も取得できました。

卒業後は、さらにスポーツリハビリを究めるために大学院(理学療法士の先生の教室)に進学。(なので、保健学修士号を一応もっています←今は全く活かせていませんが 笑)

大学院の修了式当日の写真

大学院を修了してからは、プロのトレーナーとして、大学生アスリートを担当させていただき、目の前の選手のことだけを考えながらコツコツと勤務していました。

そんなある日、私の姿を見てくださっていたチーム関係者の方から、とあるラグビーのトップリーグチーム(正確には昇格⇆降格していた時代)でトレーナーとして働かないかと声をかけていただきました。

わたしはすぐに「はい!」とお返事をし、「ラグビーの日本最高レベルで仕事ができる!」
という高揚感とともに、見知らぬ土地で働く緊張感をもちながら、引越しをした覚えがあります。

自分の知識やスキルには自信満々のわたしだったので、「やっと、自分の力を試せる機会がやってきた!」そんな思いで新天地での活動に意欲満々でした。

しかし、このトップリーグのラグビーチームでの仕事が後の私の人生を大きく変え、結果的には「エッセンシャルビジネス講座」が生まれる一要因となったのです。

トレーナーとして契約した企業のチームには、自分より年上、年下、日本人、外国人という多種多様な層のラグビー選手やコーチたちがいました。

世界で活躍した選手とも仕事をさせてもらいました

そして、私より経験も知識も、人間的にもずーっと上をいっていた、メディカルスタッフたち(鍼灸師・理学療法士など)もいて、活動を始めてからは、あんなに高かったわたしの鼻はポッキリ折れていました。

(選手は、自分の商売道具の体を触られるので、信頼していないトレーナーには声もかけてこないのです)

それに加え、友人知人が全くいない土地での暮らし、

朝練の準備のために朝4時に出勤する日々、

お正月も休みがなく友人や家族と生活スタイルが合わないスケジュール、

1日の中で女性と話す機会は掃除をしてくれるかなり年上の女性と食堂の女性たちだけ、という環境で生活する中、

オフの日は、徐々に一人で家に引きこもるようになり、心がどんどん曇っていきました。

そんな状態のわたしに追い討ちをかけるように、届く友人の結婚出産報告

「この業界で、40代になっても現役で活躍している女性は一人しかいない(当時は一人だけでした)。

しかも、わたしは結婚して子供も産みたいから目指している将来の姿ではない。

今のままでは、私がなりたい姿とは違う方向に進みそう…

このように、様々な状況がかさなって、最終的には、自信喪失から自分を自分で傷つけ、心身を病んでしまい「うつ病」と診断名がついて、夢だったラグビーチームとの契約を終了しました。

とても苦しかった反面、少しホッとしたのも覚えています。

この経験から、「仕事好きな女性が生涯働くにはどういう道を選べばいいのか?」というテーマが私の中に生まれましたが、このあとも、しばらくは答えを見つけられず、試行錯誤を繰り返すのです。

トレーナー、スポーツ業界というものに、相当な熱量をもって10数年生きてきたわたしは、ラグビーチームの仕事を辞めてから、何をしていいのかわからなくなりました。

半年以上の間、「人生の夏休み」と称して実家に引き篭もる日々が続きました。

しかし、生きるためにお金は必要だ、と思いたち、「やってみたかったことを全てやりながらお金をいただこう!」と動きだしました。

お花屋さん(街の花屋さんとステージ装花なども行う花屋さん計3件で働きました)、

夜のクラブの仕事(ママとお客さんがめちゃくちゃ良い方達でした)、

会社員(事務)などなど、思いついたものは全てチャレンジしました。

しかし、何か満たされない、エネルギーが余るなぁと思っていた時に、会社員の仕事をしながら、たまたまパーソナルトレーナーとしてアルバイトを開始したのです。

なんとなく始めたアルバイトでしたが、これが、思った以上に面白くて、久しぶりにのめり込みました。

これまで、ラグビー選手の体しか見たことがなく、一般の女性を相手にトレーニングをしたことがなかったわたしは、

山の中にこもっていた仙人が俗世に降りてきたかのような新鮮な感覚で、女性のトレーニングの面白さに目覚め、のめり込んでいきました。

このアルバイトを機に、パーソナルトレーニングスタジオの経営というビジネスモデルへの解像度もあがり、自分でもできるかもしれないと思い立ち、独立のために退職。

その後、2ヶ月で目黒にパーソナルトレーニングスタジオをオープンしました。(やると決めるまでに時間がかかることはありますが、やると決めたら早い人です)

Screenshot

その当時は意識をしていませんでしたが、女性専門のパーソナルトレーニング事業は、

わたしのビジョンとミッションとメソッドが全て一致した状態の事業だったので、右肩上がりにどんどん伸びていき、人を雇用し、六本木への移転(規模拡大)も行いました。

全てが順調に進んでいたのですが、このタイミングで、予期していなかったのがわたしの妊娠でした。

「子供を授かったのであれば育てたい。」という思いをもっていたので、パーソナルトレーナーの仕事をしながら臨月を迎えましたが、

実は、わたしは出産する前までは子供があまり得意ではありませんでした。

しかし、実際に我が子が生まれてきて、子育てをしていく中で感じたのは、「子供って無限の可能性を持って生まれてくるんだ!」ということでした。


「どんな子供にも、幸せになる権利はある。幸せとは選択肢があること。
だからこそ、選択肢を増やせる教育全ての子どもが受けられるようにしたい。」

子供に興味を持てなかったわたしでしたが、出産を通してこんな思いが湧いてきたのです。

ちなみに、出産した当日も6レッスン分の予約があり、そのキャンセル連絡を分娩台の上からした記憶があります(←真似はしないでください笑)

出産したことで、これまでにない思いが湧いてきて、新たな気づきがあった反面、現実では、出産後2ヶ月で仕事に復帰しました。(決しておすすめはしません…)

つまり、子供を生後2ヶ月から保育園に預ける日々が始まりました。

この世の中に出てきてまだ2ヶ月の赤ちゃんなので、夜泣きもあれば、授乳もあります。

変な時間に起きてしまった0歳の我が子を膝に乗せて、お客さんへの返信をPCでする。

バウンサー(ゆらゆら揺れて赤ちゃんが眠くなる道具)を足で揺らしながら、手ではPCをカタカタする。

そして、自分の体はまだボロボロ…。

こんな日々を過ごしながら、

「子供ともっと一緒に過ごす時間を取るべきなのでは?」
「2ヶ月から保育園に預けるって母親としてどうなの?」

“ちゃんとした母親”になれていないのではないか、と勝手に自分で自分を責めていました。

当時は、毎日が目まぐるしすぎて、記憶はほぼないのですが、朝も寝る前もこっそり泣いていたことだけはなんとなく覚えています。

そんな私に追い討ちをかけるように、スタジオの集客が徐々にうまくいかなくなり始めました。(自分がボロボロ状態なので、当たり前と言えば当たり前ですよね…)

当時のパーソナルトレーニングスタジオは、マーケティングや経営をほとんど学んでいないまま、スタッフを増やし、ある程度まで売上が伸びていました。

そのため、集客の仕組み化なども全くできておらず、代表のわたしが集客をしないと、集客が止まってしまう状態でした。

また、当時は世田谷に住んでいたので、トレーニングスタジオがある六本木までは交通の便が悪く、時間もかかり、子供の体調不良で保育園から呼び出しがあった時にすぐ対応できないことが連続して起こりました。

その頃から、「パーソナルトレーナーという仕事は好きだし、ビジネスとしても伸びるけれど、わたしの命の時間の切り売りであり”労働集客型ビジネス”である」ということを再認識したのです。

このように、仕事とプライベートで様々なことが重なり、ある時、わたしはぷつっと何かが切れるように限界を迎えました。

「子育てをしながら、今のままの働き方は続けられない」

知人のアドバイスもあり、わたしは自身の集客経験を活かして、在宅で「商品構築・WEBマーケティング」を教える専門家として会社の看板をかけなおし、お客さんがゼロの状態から働き方改革を行なったのです。

働き方改革を実行し、在宅でマーケティングを教えるようになってから、全ての問題は解決する…はずでした。

仕事を変えて、最初の頃は、実績もなかったので集客に苦戦しました(7ヶ月間売り上げゼロ 涙)。

しかし、その後は、だんだんとお客様の声もあつまり、SNSだけでの集客にも関わらず3ヶ月で200名以上の参加者を集客できるようになりました。

それに伴い、売上も右肩上がりに伸びていき、月に会社員の月収程度を売り上げられるようになりました。

一見、外からみたら「在宅での仕事に切り変えて、自分もクライアントさんも成功しているママ」だったとおもいます。

しかし、私自身はずっと違和感がありました。

(贅沢な悩みなのかもしれないと自分に言い聞かせていたので、この違和感を言語化するのに2年もかかりました)

  • 自由を求めて起業したはずなのに自由ではない(色々な事情がありました-その1)
  • 自分が本当に良いと思えるものを売れていない(色々な事情がありました-その2)
  • 自分の好きなことややりたいことが何かわからなくなっている
  • 売上を上げている人がすごい、という価値観をもっている自分
  • クライアントさんの方を見たいと思っているのに見れていない自分
  • 一番大切な家族を大切にできていない自分
  • 腹の底から思っていることを言えていない自分(色々な事情がありました-その3)
  • 何のために生きているのかが分からなくなっている自分

「この違和感を抱えたままでは、わたし違う方向に行ってしまう」
「今変えないと自分が自分でなくなる!」


多くの方に迷惑がかかることはわかっていたのですが、どうしても感情がおさえられなくなり、当時いたコミュニティを離れる決意をしました。

そして、それと同時に自分のチームを解散。

ゼロの状態に戻ったのです。

これまでの2つの仕事(=ラグビーのトレーナー、そして、パーソナルトレーニングスタジオの経営)は働き方の問題で方向転換をしてきましたが、

今度は、自分の内側にある違和感を発端にして方向転換をしました。

以前に所属していた環境(コミュニティ)を離れる時の契約もあり、

ゼロの状態になってから2〜3年は自分の名前でビジネスはせず、生活のために、法人案件のみで活動を行いました。

あんなに大変な思いをして集めたお客様の声や、実績、人とのつながりなど、本当に全てがゼロになってしまいました。

(これも、全て自分が選び、作り出した現実ですよね。今では全てのことに感謝しています)

当時のクライアントさんたちには本当に迷惑をかけて、申し訳なかったと思っています。

それでも、“あの時、鍵森さんがコミュニティを離れてくれたから今の自分がある”と言ってくれるかつてのクライアントさんたちに感謝しかないです。

「わたしはこれから何をやって生きていけばいいのだろう」
「何のために生きているんだっけ?」

こんな思いが湧いてきて、そのヒント探しの日々が始まり、自身のこれまでの経験から「すべては自分の中にある」と感じていたので、そこからは、とにかく自分と向き合う日々が始まりました。

それは、「わたしは、何色が好きだったんだろう」というレベルの向き合いから始まりました(こんな質問にすら答えられないくらい、人の価値観で生きてしまっていたのです)

時間はかかりましたが、少しずつ少しずつ、「自分」を思い出していきました。

今まで“自分”から離れてしまった、”もうひとりの自分”を統合するような感覚でした。

自分を統合する感覚で自分を思い出したわたしは、たまたたそのタイミングでご縁あって、経営と人生を考えるという趣旨のとあるセミナーに参加させていただきました。

それをきっかけに、自身のビジネスと人生についても、改めて深く深く考えるようになりました。

最初のうちは、しっくりくる言葉がでなくて、モヤモヤぐるぐるしましたが、参加後からはSNSを通して自分の思いを言語化&発信する練習をし始めました。

また、自分の思いを表すための素敵な言葉を、街中やSNS、本で見かける度にストックしつづけました。

言葉を記録するのはなかなか面倒でしたが…笑。 わたしの心が「やった方がいい」と知っていたので続けられました

そして、セミナーに参加してから半年後、2回目の同じセミナーに参加した時に、湧き上がるように書いたのがこの言葉です。

「マーケティングと自己一致したビジネスの構築で、女性が物心共に豊かになる力添えをする」
 
その結果、「物心共に豊かな女性が、豊かに子育てができる社会を実現する」

自分自身を見つめ直し初めて、約3年。

やっと、第1弾の自分の人生と経営のミッション・ビジョンを言語化できた感覚です。

たくさんのノートを使って自己対話してきました

ビジョンミッションの中に、マーケティングという単語が入っていますが、これまでのわたしは、マーケティングは、「人に教えて欲しい」と言われたから仕事にしただけでした。

そのため、これまではビジョンやミッションと結びついていなかったのです。これは、前のコミュニティにいた時から感じていたことでした。

しかし、今回、ミッション・ビジョンについて考えに考え抜いている中で、全ての子供が幸せであることと、女性がマーケティングを身につけることの共通点に気づいたのです。

どういうことかというと、「子供の幸せ=選択肢があること」、その選択肢を生み出せるのはマーケティングであるということです。

そこで、最終的に、「あれ?マーケティングって女性を豊かにできるツールなんじゃないかな?」という気づきがあったのです。

これは、マーケティングを仕事にし始めた時に言っていたことと同じでした。

そうです、1周回って同じことに行き着いたのです。

しかし、以前と違うのは、頭で思っていることではなく腹の底から信じているので、自分の言葉で言えるようになったことです。

自分自身の経験を通して、また、クライアントさんたちの変化を側で見させてもらって、マーケティングの素晴らしさや可能性と、自己一致したビジネスの力をわたしは信じています。

これからは、まず、選択肢を持てる物心ともに豊かな起業家女性を100名生み出します。

その次に、「今すぐ起業を選択はしないけれど、雇用される以外の働き方を模索している女性たち」の力になれるプラットフォームをつくり、

女性の人生のフェーズにあった新しい働き方を提案し、企業とその女性たちを結びつけられるようなサービスを展開していきます。

また、プライベートでは、子供の教育を支援している団体への寄付を継続し、その寄付金額の桁を1つ増やすことを目標にしています。

「女性の選択肢増やすことが、子供の未来を輝かせる。」


そう信じ、私の周りにいてくれる女性達に、選択できる人生を手渡していきます。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

株式会社Will Workout
代表取締役
エッセンシャルビジネス講座 代表講師
鍵森綾